「堂々たる旅」 〜 第1回 伊原第一外科壕




     10月某日。

     ひめゆりの塔は、今日も修学旅行生でいっぱいである。行列しながら資料館を見学して外に出てくると、
    添乗員さんが「ゆっくりしてください」、とコーヒーチケットをくれる。修学旅行の一団は、そのまま土産物屋へ
    吸い込まれていくが、僕はチケットをポケットに押し込み、そのまま店の前を素通り。時計は、13時30分。
    バスの発車まであと30分。駐車場の横を通り抜け、後ろに誰も居ないのを確認して、一団から脱出。
    国道の歩道を足早に進むと、300mほど行った先に、さっきバスの車窓からちらりと見えた標柱が道ばたに立つ。


            


     電柱の手前、少し草むらに埋もれているが、標柱に「第一外科壕入口」の文字。この脇道から入るらしい。


     沖縄はこれで人生4回目である。もっともすべて修学旅行仕事なので、好きにあちこち見て回るわけには
    いかない。しかし、今回は、どうしても行きたい場所ができた。さかのぼること1ヶ月ほど。たまたま図書館で
    借りた本に、「山城本部壕」なるもののルポがあった。沖縄戦で使われた壕では、海軍司令部壕は行ったこと
    があるし、アブチラガマの話は一時沖縄勤務だった弟から聞いていたし、少し前に読谷村のガマを荒らした
    にーちゃん達の顛末もニュースで知っていた。がしかし、この本の「山城本部壕」の話には、心掴まれた。ひめゆり
    の塔から歩いていける距離にあるのだが、人っ子一人いない。泥濘の壕の中に入ったところで、筆者は歯のついた
    顎の骨の遺骨を見つける。個人で遺骨収集を続けている方がいらして、その方が掘り起こしたものだという・・・。
     そんな場所が、日常の隣にいまだにある・・・。さっきひめゆり資料館で、この周辺の地下壕の地図を確認した。
    ひめゆりの塔の壕は「伊原第三外科壕」。つまり、第一も第二もあるってことだ。くだんの山城本部壕までは500m
    くらいだろうか、しかし30分での往復は厳しい。ということでもっとも至近であろう、ここに目標を定めたわけである。


     白い道はすぐ二叉になるが、案内はない。勘を信じて左へ。民家の向こうにはさとうきび畑が広がる。
    ひめゆりに来る時は、いつも鉛色の重い空だったが、今日は初めての、天に抜ける青い空。


     そして。


           





     ゆるやかな畑の道ばたに、小ぶりな雑木林。一見、何でもない。しかし・・・






           





     森の入り口。小さな石の門が教えてくれる。よく見れば、右手に「伊原第一外科壕」の標柱が立ち、慰霊塔とおぼしき
    も建てられている。慰霊塔、かなりの年季らしく基礎部分の文章はよく読めない。時間があればじっくり解読するのだが。
    そして風雨にさらされて半ば紙に還ろうとしている千羽鶴。ひめゆりの喧噪どころか、人気も物音も、風の音さえしない。
    森の中には穴が開いているようで、地面に打ち込んだ鉄筋に、ロープを張ったものが森の中、大地の下の方へといざなう。

     が、すぐに入る気になれず、森と向き合ってしばしたたずむ。息を飲む。


     ここは、「大事な」場所だ。門の所へ進み、一礼して、「失礼します」と、つぶやく。森の中には大きな穴。底に向かって、
    地面に石を置いただけの手作りの階段を、足下の泥濘を気にしつつ、下りていく。
     横長に口を開けた、自然洞窟の全景が目に入る。穴の底までは5mくらいの高さだろうか。一番底は泥水の池になって
    いる。今は水没しているだけで、乾期なら入れる穴があるのか、ありそうだが、それは分からない。その底におおいかぶ
    さる天井には、カーテンのような鍾乳石もどきが垂れ下がり、先端からぽたぽたぽたと、止めどなく水滴を落としている。
     その垂れ下がる石に、真新しい千羽鶴が3つほど、色鮮やかにかかっている。修学旅行だろうか、ここを訪ねる人は
    いるようだ。
     泥グチャな足下を滑らせながら、底近くまで下りる。空気は冷たいが湿度が上がる。ぽたぽた水滴が頭を濡らす。足下に
    水たまり、振り返ると、空が、青い。穴の底を見下ろし、空を見上げる。目を閉じる。ぽた、ぽた、ぽた。



     何か表現しようとカメラを取り出す。が、穴の底に向かってシャッターは切れない。そこには、ここに逃げてきた人たち
    の思念が残っていそうで、それに向かってシャッターを切るのは失礼である。さらに言えば、それは外部の視点、物見遊山
    の視点、アメリカ軍の視点である。自分の立ち位置は、そっちではない。そして、見上げる。




           




     見上げた世界は一瞬まぶしい。暗い壕の中に隠れていた人たちが、穴の隙間から外を見るときは、こんな感じで
    あったのだろうか。



     そして、目が慣れる。穴と木々の間には、よく晴れ渡った青い空。


           



     こんなにすがすがしい青なのに、ここから見る色は哀しい。ここに避難した人たちは、この青を見上げても、おいそれ
    と出て行くことは、かなわなかったはずである。外に出ることは、命がけ。いつ、撃たれるか分からない。いや、それは
    穴に居ても同じこと。衛生は最悪、食べるものなく、怪我、病気、音も立てず、小さくなって時を凌ぐ・・・。



     あいかわらず、水滴のしたたる音と、哀しげな青い空。しかし、もう時間である。


     階段を上り、小さい門の所で再び一礼する。

     「こんどはちゃんと時間を作って来ます」。


     道に出る。振り返った先、白い道はさとうきび畑を両脇に従え、海の方へと伸びていく。この長閑な風景の中に、
    戦争の跡が、そこらの道ばたに残っている。道ばたに無造作にあるものに気がつくには、歩いて行くしかない。
     沖縄に、仕事でなく、自分で来ようと思った。「徒ほほな旅人」として、沖縄で歩くべき道は、これである。その確信を
    胸に、第一外科壕を後にする。



           




     10分後。再び、ひめゆりの塔。相変わらず、修学旅行生で混雑している。確かにここは大事な場所で、戦争の悲劇を
    世に知らしめるという、重要な役を担っている。
     しかし、ここだけではない。まだ僕にも見えていない、日常の隣にある戦争が、いろんな形で、道ばたにあるはずだ。


     バスに揺られて車窓を観察すれば、小さな森やら、石灰岩の崖やらが目に入る。あそこにもあるのだろうか、日常の
    隣の爪痕が。

     バスガイドさんがアカペラで歌う、 ♪ざわわ ざわわ ざわわ〜♪ が、いつまでも耳に残っていた。
    



     参考文献: 西牟田靖 「ニッポンの穴紀行 近代史を彩る光と影」 光文社 2010



     帰ってきてから、第一外科壕について調べてみた。この壕にはひめゆりや他の学徒隊、地元の人々が避難していた。
    アメリカ軍の砲弾が壕の入口付近に落ちて犠牲者が出ており、ひめゆり学徒隊も何名かが、亡くなっているようである。
    石碑は、ひめゆり同窓会による建立であるらしい。次は、資料館でここの壕であったことを調べて、現地できちんと碑文を
    読まねば。もちろん、那覇の港から、荷物を背負って、歩いてきて。



     2018年10月16日  沖縄県糸満市伊原  晴れ   歩行距離 600m  所要時間 15分


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