「堂々たる旅」 〜 第3回 乗鞍、ある冬の午後



     冬の、ある日。

     ふと、ひさしぶりに、雪の乗鞍を歩きたくなった。

     松本から、かつて学生だった時と同じように、昼過ぎの国道をたどる。月曜日で、車は少ない。


    乗鞍高原。歩くスキーの拠点は、バスターミナルのある鈴蘭なのだが、いつも通り、旧いがやスキー場の
    方に入る。スキー場の丘の上、公園ができていて、トイレなど小ぎれいなれど、すべて雪に埋まっている。
    路肩に無造作に車を停め、道具を引っ張り出す。風はなく、空は快晴。雪の野をゆくのにスキーウェアは
    いらない。カッパも不要。長年来と同じく、上下ジャージ。そこらへんを散歩するのと同じ格好なのはいつものこと。
    だって、ここは自分にとっての「そこらへん」だから。革靴の紐を締め、ひさしぶりに細板を履く。軽い。山野を
    歩き回るには、道具も身も心も、この軽さが必要だ。


     ここから一ノ瀬牧場までは、サイクリングロードをたどる。道にはスキーが付けた2本のレール。それよりも
    スノーシューの足跡が多い。スキーよりスノーシューの方が歩きやすいからだろうか。レールに沿って歩く、
    が、すぐに脱線(笑)、林の中を近道する。ザクザクザク。サイクリングロード、牧場に向かってゆるやかに登る。
    森の中、左手下方は小川なれど、雪にすっかり埋まっている。正面にギラギラ太陽。眼鏡をサングラスに換える。
    登りに汗ばむ。スキーのレールを辿る、が、人の踏んだ跡をたどる人生はつまらない。レールを避け、道の端に
    自分の足跡を付ける。歩くスキーの楽しみそのいち。この辺り、昔はすっかり森だったはずだが、小川周りには
    開けた場所が多い。倒木も複数。昨夏、信州を直撃した台風のせいだろうか。


     道は飽きた。道をはずれ、小川に下りる。雪が少ない割に、小川は変わらず深く埋まる。難なく対岸に渡れば
    そこは道なき森の中。樹林の中を、通れそうな隙間を見つけて進む。時にまっすぐ、時にジグザグ、カニ歩き。
    僕の前に道はない僕の後ろに道はできる。雪野の散歩は雪さえあればどこへでも。歩くスキーの楽しみそのに。


     小川は相変わらず雪に埋まる。周りより少しへこんだ雪の溝。川の上を歩いていこう。溝の中を歩くのは新鮮だ。
    ところどころ、足下から水の流れる音が聞こえる。流れは見えないのに水の音。不思議な音だ。雪に埋まって隠れ
    ているが、水の旅は春に向かって、里に向かって、ひそかに始まっている。水音に耳を傾け、目を閉じる。水は雪を
    溶かし、その跡に水芭蕉を咲かせる。木々が緑に芽吹き、鳥がさえずる。季節は見えないところで、少しずつ、進む。
    当たり前のことだけど、そんなことを思うのは、ひさしぶりだ。信州にいた頃は、毎日のように浴びていた自然の移ろい。
    劣化した自分のアンテナが再生されていく。


     歩き出す。さかのぼるに、水音が途切れなくなる。ストックで雪を突く。雪に開いた穴の底にはほとばしる力強い流れ。
    雪の底で、水は猛然と春に向かって奔る。開いた穴から、いっそう強い水の声。しばし、穴をのぞき込み、雪のトンネル
    へと消えゆく流れに見とれる。
     しかし、川上の雪は薄くなっている。川にはまると被害甚大なので、小川を離れ、再び左の斜面に上がる。記憶を頼り
    に、森の木々を縫い、藪を漕ぎ、丘を越える。


     丘の先に、それは、あった。


           




     記憶にあった、雪の原っぱ。

     真ん中に、白樺の木。兎の足跡が交錯し、向こうに乗鞍岳が鎮座する。
    スキーコースからはずれた、秘密の広場。人工物も、人工音も、ない。

     風が通り、風の音。目を閉じる。




     静寂、時々、風。



     腰を下ろし、たたずむ。すぐそこにある、非日常。すぐそこにある、自然だけの空間。時間がゆっくりになる。



     その無垢の原っぱのど真ん中に、足跡を刻む。人工物だ。自分の存在を刻むのだ。でも、どうせじきに雪が
    隠してくれる。


     再び小川。雪が割れ、水流ほとばしる。そこに木橋が架かる。橋があるなら渡らねばならぬ。丸太2本幅の橋。
    勢いつけて橋の上へ滑り込む。おっと、丸太2本のうち1本が落ちている。ストップストップ。丸太に雪で危うい
    バランス。横木にストックを突いてバランスを取るが動けない。足下は、身長くらい下に水。落ちたら派手にずぶ濡れ
    でいこう。橋の向こうは雪の土手。呼吸整え、土手の雪面に片足どん!ストックをザク!ぐぬぬぬぬぬ。
    態勢悪い。ぐぬぬぬ。滑れば直行小川行き。こうなったら力技。うおりゃーーーーー!!全身を前へ投げ出し1歩、2歩、
    3歩ーー、で土手の上。危ない危ない。ちょっとした冒険だ。なぜそんな危ない橋を渡るのか。非日常な刺激が欲しいのさ。

     斜面を登り、サイクリングロードに復帰。そしてほどなく車道に出たところが、一ノ瀬園地の広場。ここまでちょうど
    1時間。広場の雪原には、先行者のレールが縦横無尽、あっちへこっちへ。


           



     ここから先は、森を切り開いた放牧地。広場を起点に、その外周ぐるりと遊歩道=歩くスキーコースが設定
    されていて、スキーの道ができている。が、当然そんな方へは行かず、放牧地のど真ん中へ。
    だだっ広い雪野原。足跡付けてどしどし進む。原が終わると、行く手に丘が立ちふさがる。雪が少なく藪が出て
    いて登るのは厳しい。丘の麓を進むと、覚えのある夏の道に合流。道は森の中へ、新しいスキー轍が登っていく。
    さすが月曜日、先行者は1人のようだ。ところどころ出てくる急坂を、ジグザグ、ハの字、カニ歩き。休むことなく
    前進前進前進。肉体でつかみとるのだ。

     ぐいぐい登って下りに転ずれば、眼前に雪の原。直滑降で滑り込むと左手に雪のくぼ地。池も雪に埋まって
    いる。進路変更。雪の池へと滑り込む。ストックで雪面を突く。雪が深い。しっかり氷結しているようで、乗っても
    問題なさそうだ。そのまま池のど真ん中にトレイルを刻む。はっはっは、俺様の道。
     小池を2つ横断すると、その先、一番南側の池だけは水面が出て青い空を映す。


     「!」




     池の向こう岸にまわりこむ。予期したとおり、正面に乗鞍岳。そして湖面にも山と空。
    思い出してカメラを取り出す、と、風来りて、湖面波打つ。しばらく、待とう。





     待つことは、楽しい。


     大好きな人からの手紙、夕焼け空、コーヒーをいれるのに沸かすお湯、
     流れ星、飯盒ごはんの炊きあがり、渓流に垂れる釣り糸、あなたに次に逢う日。


     待っている間、考える。それがどんなふうにやって来るか。それがやって来たらどうしようか。
    もしやって来なかったら・・・。
     そうやって待つから、期待も不安もごちゃまぜだから、それがやってきた時の喜びは大きい。


     でも、デジタルな現代人は待たない。待ち合わせ、といってもケータイやらメールやらですぐに
    連絡がとれる。昔のドラマみたいに、待ち人でドキドキするとか、待ち合わせで行き違うとかは、
    もはやない。待ち時間は効率が悪い。そんなもったいない時間は時間銀行に貯金しよう。その隙間時間で
    何かをしよう。ぼーっとする暇はない。まったく、時間泥棒は大繁盛だ(cf:ミヒャエル・エンデ『モモ』)。




     待っているうちに、心が静まってくる。風の詩に、耳を、傾ける。時間の流れが、ゆっくりになる。



      


     心静まった末に、今日最大限に凪いだ一瞬、静かに切り取った1枚。


     直後、容赦なく吹き下ろす強い風。もう風の出る時間である。今日はこれまでだ。カメラをしまい、再び進む。


     雪っぱらの向こうに再び丘。以前はこの丘の麓に牧舎が建っていた、はずだが、何もない。
    近づけば長方形の更地。どうやら解体したみたいだ。しかし、牧舎跡の裏手、見覚えのある大きなモミの木
    が出迎える。モミの木の向こう側は、丘の急斜面で新雪の時は爆走滑り台。しかし、今日はそこで滑り台する
    ほどの雪がない。

     さらに奥へ進み、ゆるい斜面を丘の裏側へまわりこみ、雪の原の丘の上。誰も踏んでいない純粋な雪。
    ここは風の通り道。風紋の上を、雪の粉が走る。


     縦横無尽に足跡を付けてまわりたいところだが、そろそろ時間切れ。戻っていこう。

     原っぱはゆるい下り傾斜。下る方向に、手足大きく踏み出せば、歩くスキーは歩幅以上に滑りゆく。手足を
    交互に大きく。ゆるやかな浮遊感。少しスピードが出たら、ターン弧を描く。そしてまた軽やかに歩き滑る。楽しい。
     丘の端っこ、急坂を選んでびゅいーんと直滑降。登り返して遊びたいが、また今度。さっきの池の横を過ぎ、
    一ノ瀬牧場の外周に付けられた、歩くスキーコースに出る。コース、といってもスノーモービルで道が作ってある
    だけ。踏み固められたレールの上を、いっそう大またで、歩き滑る。スピードに乗って、あっけなく一ノ瀬広場の
    レストハウス。屋根から雪が、どどどどーと落ちる。だいぶ暖かいな。ここからは人と機械に踏み固められた車道を
    力走。トレーニングだ。いがやツアーコースの十字路を右折。夏は車道のスキーコースは圧雪で雪が固い。
    そこそこ下り坂でスピードアップ。雪が固いのに、でこぼこしてる。自分の細板では滑りにくいがかまわず飛ばそう。
    危なくなったら道の両端の雪に突っ込んで減速すればー、ごろごろずぼ。雪にひっかかってすっころぶ。それも
    楽しい。爆走していくと、クルマが見えた。2時間で久しぶりの道具もすっかり脚の一部。振り返れば森の中、
    逆光の乗鞍岳が樹間からこちらを覗く。


     道具をクルマに突っ込み、温泉へ。
     湯けむり館。リニューアルしてからは初めてだ。旧館は、大学2年の時に建てられて、小ぎれいなれど木造全開
    の湯船と硫黄全開の白いお湯、風呂上がりには、でっかい暖炉のある休憩室で読書するのがお決まりだった。
    新館、白濁の湯は変わらないが、休憩室小さいし暖炉ない、風呂もタイル張りで味気ない。しかし露天風呂から
    乗鞍岳を望むのは変わらない。峰の飛騨側は強風らしく、山頂に白雲湧き出で飛ばされゆく。そこへ太陽沈みゆき、
    白雲がいつまでも光り輝く。歩くスキーに来たというおじさんと2人、今日の雪っぱらを愛でながら、その光景をいつ
    までも眺めた。



  2018年2月26日  長野県松本市安曇 乗鞍高原  晴れ


    note 1 乗鞍高原
     乗鞍岳(3026m)の長野県側、標高1500m前後に広がる高原。スキー場のほか、夏の放牧地となる一ノ瀬園地では
    歩くスキーができる。たにぐうは大学2年の時、体育のシーズンコースの授業で3泊4日のクロスカントリースキーを受講。
    以後歩くスキーにもはまり込み、冬の天気のよい日は、たびたび、ふらふらと出かけていっては歩き回っていた、ホーム
    グラウンド的フィールド。スキー以外にも、滝、温泉、散策路、ソフトクリーム、そば、パンや・・・など、ネタが多い。夏の
    乗鞍大雪渓スキーもあるな。

    note 2 歩くスキー
     ゲレンデスキーは、ブーツのつま先とかかとを、ビンディングで板に固定するが、歩くスキーは、つま先のみ固定で、
    かかとが上がる仕様なので歩きやすい。登りにも適応するため、板の裏側にはウロコ状の切り込みが入れてある。
    ちなみに競技のクロスカントリースキーは、板の中央部に滑らないワックスを塗る。たにぐうの愛板は、エッジも付いた
    ウロコ仕様のテレマークスキー。靴も歩きやすい紐締め革靴。体育の授業の後、先生に聞いて速攻で購入した、今年
    25歳の相棒である。

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